福岡商工会議所の軌跡

福岡商工会議所の軌跡
- History -


1891明治24年
農商務大臣を主務大臣とする商法会議所条例のもと、
「博多商業会議所」設立


1897明治30年
東中洲に発電所を設置


ひときわ立派だった。
昭和45年までの47年の歳月にわたり、商工業者の苦楽が刻み込まれた。
1924大正13年
東中洲の大火から博多商業会議所所屋を再建

1928昭和3年
新法に基づく博多商工会議所の発足


この廃墟の中から福岡市民は立ちあがった
1946昭和21年
社団法人福岡商工会議所が設立

戦後の焼け野原から復活


1950昭和25年
中小企業相談所を開所


1968昭和43年
高度成長と街づくりに貢献
商店街再開発事業に対する固定資産税の大幅削減要望

1970昭和45年
福岡商工会議所ビル建設


1982昭和57年
第1回博多うまかもん市を開催

1985昭和60年
第1回ふくおか経済人余技展を開催

平成5年、県庁と福岡空港将来構想検討委員会設立

よかトピアどんたくを開催



1999平成11年
福商パソコンスクールを開講
福岡県中小企業活力強化総決起大会

2000平成12年
新人芸妓の育成を開始

2001平成13年
九州ビジネスショウで福商ITフェアを開催

2004平成16年
福商ビジネス倶楽部設立


2014平成26年
Food EXPO Kyushuを開催

2015平成27年
ラグビーワールドカップ試合招致を実現
新たな経済・社会を生き残る、地域・中小企業を創造する
アジアの拠点都市として活力溢れる福岡の構築



地域を支え、成長し続ける商工業者の支援



世界の商工会議所

世界において、商工会議所の歴史は遠く中世期にさかのぼります。欧州の商工業がまだ近代資本主義の洗礼をうける以前、フランス、ドイツ、イギリスの諸都市には商工業者の間で結成された「ギルド」組織が普及していました。このような中世期経済社会を母体として、フランスのマルセイユに誕生したのが、今日における商工会議所の最初の形態とされています。1599年、日本では関ヶ原の戦いの前年のことです。
その後、17世紀後半から18世紀にかけ、フランスに発達した商工会議所は欧州の他の諸国に大きな影響を及ぼしました。ナポレオン一世の欧州制覇に従ってライン河畔の諸国に波及し、ドイツ、オランダ、ブルガリア、スペイン、イタリアほか欧州諸国に、フランスに範をとった商工会議所が続々と設立されました。
閉じる日本における商工会議所の成り立ち
日本で最初に商工会議所が設立されたのは、1878年(明治11年)3月、東京でのことです。また同年、大阪、神戸にも設立されました。
時の明治政府は、欧米諸国に立ち遅れた国力を増強するために「富国強兵」「殖産興業」「文明開化」といった国策を掲げ、特に外国貿易振興のための商工業者の機関を必要としていました。幕末に欧米列強と締結した「貿易に関する不平等条約」の改正に向けて交渉に当たっていた内務卿・伊藤博文らは、「条約改正は国民の世論である」と訴えました。しかし、英国公使パークスは「条約改正は国民の世論と言うが、国会も商工会議所もない日本が、どのようにして世論を聞くのか」と強く反論されたそうです。これらをきっかけとして、伊藤博文や大隈重信らが、「日本資本主義の父」とも言われる実業界の渋沢栄一に相談をもちかけ、これに応じる形で、渋沢が商工会議所の設立を提唱しました。もともと、渋沢は、「日本が国際的に認められるためには、実業界がまず、しっかりしなければならず、なおかつ、国際化を果たしていかなければならない。でなければ、日本は欧米列強の属国になってしまう」と強い危機感を持っていたそうです。
帝国議会が始まったのが1890年(明治23年)ですので、商工会議所は、帝国議会の12年も前に設立されたことになります。
このように、商工会議所は、日本で最初の国際的に通用する意見集約機関と言えます。設立以来、商工会議所は一貫して、商工業者を中心とする意見集約・提言活動を行い、日本の近代化に大きく貢献してきました。



福岡商工会議所の設立
東京での設立から遅れること1年半。福博を代表するそうそうたる面々32名の連署をもって商法会議所設立願が福岡県庁へ提出されました。発起人の職業をみると、商業 16名、醸造 4名、工業 3名、金融 3名、新聞2名、その他・不明 4名となっており、多くが典型的な博多商人といってよい人たちで、福博が古くから商人の町であったことがうかがい知れます。
これにより、「福岡商法会議所」が明治12年10月13日に設立されました。事務所は第十七国立銀行2階におかれ、初代会頭には中村五平・第十七銀行頭取が就きました。既に東京・大阪・神戸・堺・長崎には設立されていたので、全国で6番目の設立となります。この日を起源に名称や形態が変わりながらも福岡商法会議所は地域経済界の先導者の役割を担って門出の一歩を踏み出すことになりました。


福岡商工会議所の変遷
■1879(明治12)年10月 福岡商法会議所
全国で6番目に設立。
■1888(明治21)年7月 福岡商工会
太政官布達13号にもとづき改組、公認の団体となる。
■1891(明治24)年7月15日 博多商業会議所
商業会議所条例にもとづき商工会を解散し新たに会議所を設立、法的団体となる。
■1928(昭和3)年6月23日 博多商工会議所
商工会議所法にもとづき改組。
■1943(昭和18)年10月1日 福岡県商工経済会福岡支部
商工経済会法にもとづき博多商工会議所を解散、福岡県商工経済会成立に伴い同会支部となる。自主的組織から国策協力機関へ。
■1946(昭和21)年10月12日 社団法人福岡商工会議所
福岡県商工経済会を解散、社団法人の会議所設立。
■1954(昭和29)年6月1日 福岡商工会議所
1953(昭和28)年施行の商工会議所法にもとづき特殊法人に改組、現在に至る。
博多港開港を建議
日清戦争勝利によって対外発展の機運が高まる明治29年4月、福岡市で開催された第5回商業会議所連合会で、博多商業会議所の提案した「開港場増設ノ意見ヲ其筋ニ開申請願スルノ件」が可決されました。さらに、福博有志による集会が再三開かれ、博多港を指定港にする請願の署名運動が繰り広げられるなど市民運動が盛り上がり、「博多港を外国貿易の為の輸出入港に指定にする建議」を政府に建議しました。そうした働き掛けの結果、明治29年10月に、博多港が特別輸出入港に指定されました。
日清戦争の真っただ中という時期から、博多商業会議所の有志は、対外貿易に向けて協議を進めるなど布石を打ち始め、福岡が時運の先頭に立って提唱した開港場増設の意見は実を結びました。

関門海底鉄道の布設を提言
商業会議所の全国組織である商業会議所連合会の第5回総会が福岡市で開催されましたが、このような全国大会が当地で開催されるのは初めてのことで、県下の実業界をあげて遠来の客の接待にあたり、市内は歓迎一色の賑わいを見せたとされております。この総会に博多商業会議所は開港場増設のほかにも、「関門海峡ニ海底鉄道ヲ布設スル儀ニ付政府ニ建議シ並ニ貴衆両院ニ請願スル件」を提出しました。
議案のスケールがあまりに大きかったため、理解を得るに至らず、同議案は取り下げられましたが、関門海底トンネルは、この時から46年後の昭和17年に下り列車が、昭和19年に上り列車が走って全面開通しました。当時は日の目を見るに至りませんでしたが、時代の進運によって「関門海底鉄道」は先見性あふれる構想であったことが証明されました。



博多駅移転要求の口火を切る
46年後の昭和38年に実現
明治中期に九州で最初の鉄道である九州鉄道が開業し、経済の発展に伴い鉄道輸送量は急速に伸びていきました。大正7年には、現在の祇園町付近にあった博多駅について“鉄道線路が市の南北発展を阻害している”、“新たな線の乗り入れ接続のための拡張の余地がない”、“乗降客・貨物の増大によって駅舎が狭隘化している”との理由から将来発展のうえで不適当との意見をまとめ、博多駅の位置を比恵付近まで移転させるよう九州鉄道管理局に申し入れました。
この申し入れによって博多駅移転要求の口火は切られました。駅移転が実現するのは46年後の昭和38年12月のことですが、それまでの間、本会議所が当市最大の課題に市民の先鋒となって取り組みました。また、その間には、線路が日常の商業活動を不便にしていることから、地下道や跨線橋の設置を市に要望したり、鉄道を高架線にするよう国に建議もしました。高架鉄道は昭和初期においては斬新で思い切った提案であったとされています。

郵便局庁舎を新築し逓信省に貸し付け、博多部への郵便局設置を実現
大正の2ケタの時代になると福岡市の発展も目覚ましく、郵便業務も激増しました。当時、福岡部の天神町に福岡郵便局(一等局)がありましたが、商工業の中心地である博多部には集配業務を取り扱う郵便局がなく、商工業者にとっては不便で取引上でも多くの支障があったことから、博多商業会議所は大正10年7月、博多部に二等郵便局を設置するよう政府に建議しました。
政府は建議の趣旨は受け入れたものの経費の関係から設置は叶えられそうになかったため、検討の結果、当所が郵便局の庁舎を新築し、それを逓信省に貸し付けるという方法に思い至りました。これも資金調達が思うにまかせず、九州電燈鉄道(後の東邦電力)に協力を仰ぎ、大正12年11月に博多郵便局が設置されました。後に、政府は昭和11年予算で買上費を計上し、当局に買い上げられたとのことです。
この間、大正12年1月に東中洲の大火で本会議所は被災し、また同9月には関東大震災が発生するなど騒然とした中で進めた大事業でしたが、それを成功させたことは地元の繁栄に繋がり、会議所史の中でもひときわ特筆する事跡でありました。




新生大南方展で「二十年後ノ大福岡構想図」を公開
思い切った未来図に観覧者が釘付け
戦時中の昭和18年3月に「新生大南方展」が会議所で開催され、3万人を超える観覧客を集めて賑わいました。その中で観覧客を釘付けにしたのが、「二十年後ノ大福岡構想図」です。
昭和38年には福岡市の都市機能がこのように変貌しているという夢をはらんだ未来図が描かれたもので、例えば、博多駅が後方へ移転し、新幹線に相当する新線がほぼ現在の地点を走り、市区を8区に整備して香椎や姪浜にも区役所を設置するなど、当時としては思い切ったプランだったと高く評価されています。70cm×135cmのパネルは、今も商工会議所に飾られています。

博多どんたく復興
博多・奈良屋小学校区は、昭和20年6月19日の大空襲によって、一面焼け野原となりました。無い無いづくしの中、仮設の住まいが建ち始め、旧商店主が商店街建設に立ちあがり、昭和21年5月25日には、「第一次博多復興祭」と銘打った祭りが開催されました。「博多どんたく」のお囃子を瓦礫の町に響かせながら練り歩いたことが復興への大きな勇気を与えたとされております。
この翌年、社会世相も不安定な中で、博多の街おこしとして新天町が創業し、福岡地区にも明るい話題が生まれてきた頃、福岡市と福岡商工会議所の音頭取りで「博多どんたく」の復活が8年振りに正式に立ちあがり、昭和22年5月24~25日、「祝福岡市復興祭・みなと祭」と銘打って行われました。この復興祭が、今日200万人以上の人々が祝い合う福岡市民の祭りの戦後の起爆点となったものです。




高度成長と街づくりに貢献
経済成長に伴い、都市問題が経済界でも重要課題としてクローズアップされてきました。
昭和30年代になると西鉄大牟田線・福岡駅の乗降客は増え、周辺の交通渋滞も起き、将来の交通に万全を期しがたくなってきたことから、福岡駅から薬院新川までの高架化が行われました。これにより天神交差点一帯は整い、福岡市の商工業充実への足固めとなりました。当所はこの基本構想が決まるに先だつ昭和35年に、高架区間は福岡駅~平尾駅間とするよう要望書を提出。将来の交通事情をよく見通し、関係者の勇断を求めた有意義な提言とされ、最終的に同区間の高架化が平成7年に完了しています。
また、昭和40年代には、地域開発や防災上の観点から早急な再開発が必要であったことから、昭和43年、商店街が行う再開発事業の奨励促進のため、固定資産税の大幅軽減を市に要望し実現しました。天神地区の商店街の再開発には関係者の調整にも努めました。


中小企業へきめ細かな施策を展開
日本経済の成長・発展に伴い大企業と中小企業の格差はさらに顕著となり、中小企業問題は複雑化し困難の度合いを深めてきました。当所は従来から中小企業対策に力を注いできましたが、年ごとに経営や技術に関する相談や指導、事業資金の借入れの斡旋などの実績が増加し、当所の事業活動の中でも大きなウェイトを占めるようになりました。
昭和48年6月には、よりきめ細かで親しみやすい経営相談を推進する体制を整えるため、その前年に発足した5区にそれぞれ支所を、香椎地区に出張所を開設。さらに、同年10月に国の制度として創設された小規模経営改善資金融資制度(マルケイ融資)を活用して小規模事業者の指導や相談にあたり、利用は次第に増えていきました。
このほか、労務対策の一環として昭和47年11月には、特定退職金共済制度と会員事業所共済制度を創設。いずれも会員企業の支持を集め、今日も多くの加入者に利用いただいています。



新国際空港を提言
福岡空港の施設対応能力の現状を踏まえ、長期的な視野に立って新国際空港建設の必要性を調査・研究する目的で、平成元年8月に新国際空港問題特別委員会を設置して検討を重ね、同年12月には「新国際空港建設の促進についての要望」を県・市に提出しました。行政・経済界でも「福岡空港将来構想検討委員会」設置をはじめ議論が重ねられ、平成17年からはパブリック・インボルブメント(PI)の手法を用いて今後の福岡空港のあり方が検討。当所も検討の各段階において、続けて意見を陳述しました。
福岡空港の過密化対策としては、平成27年に、現滑走路の西側に2,500mの滑走路を増設する方針が決定。令和6年度の運用開始に向けて工事が進められています。

伝統芸能の保存・育成
博多伝統芸能振興会の設立
博多の花柳界は大正から昭和初期にかけて約2,000人の芸妓をかかえ、全国有数の規模を誇った時期もありましたが、時代の移り変わりとともに減少していきました。経済界を中心に地元伝統芸能の保存・育成の声が高まったことを受け、平成3年に博多伝統芸能振興会を設立。昭和61年以降途絶えていた「博多をどり」を復活させました。平成11年からは会場を博多座に移し、博多の伝統芸能の担い手である博多券番の芸妓衆が総出演する邦楽邦舞のイベントとして、また年末の風物詩として定着しています。さらに、平成12年からは数次にわたり、伝統芸能の伝承者たる新人芸妓の募集・育成を行っています。
平成29年11月には、櫛田神社前に「博多伝統芸能館」を開設。地元はもとより外国人観光客も多く迎え入れ、博多の伝統文化に“触れる”“体験できる”観光拠点となっています。


福岡アジアコレクション、Food EXPO Kyushu
地域の強みを活かした経済・産業の振興
平成20年から、ファッション分野における優れたポテンシャルを活かし、福岡をアジアのファッション産業の拠点として発信力向上のために「福岡アジアコレクション」を開催。さらに、平成25年からは商業施設と一緒になって「ファッションウィーク福岡」を開催し、「ファッションの街・ショッピングの街『福岡』」を国内外にアピールし、街全体を盛り上げ、地域経済への波及効果を高めるべく取り組んでいます。
福岡・九州の強みである食は、生産から加工、販売・サービス、さらにその魅力を発信することで観光面での集客強化に繋がるなど幅広い業種の活性化に寄与することから、平成26年より「Food EXPO Kyushu」を開催しています。
ファッションや食などの地域ならではの特性や強みを最大限に活かした経済・産業の振興を図り、さらに街の活力を高めるべく取り組んでいます。

各地商工会議所と連携し、災害からの復興を支援
平成28年4月に発生した「熊本地震」は、生産活動の停滞、交通・物流網の寸断、旅行・宿泊キャンセルなどのほか、中小企業においても直接・間接問わず震災被害をもたらし、九州経済に甚大な影響を与えました。未曽有の大災害から一日も早い復旧・復興を図るため、九州商工会議所連合会は他の経済団体とともに国へ総合的な支援を要望し、小規模事業者持続化補助金や九州ふっこう割などの施策に繋げました。
また、震災1か月後から約2か月の間、全国52商工会議所から67人の経営指導員を現地へ応援派遣して約4,000件の経営相談にあたり、多くの被災した事業者に寄り添い事業再開や資金繰りなどのサポートを行いました。このほか、全国から寄せられた約4億円もの義援金を活用し、被災商工会議所の復旧、九州・熊本の観光復興事業を行うなど、商工会議所の全国ネットワークを活かした支援活動を展開しました。


